ニューヨーク市ブロードウェイ街の雑踏に身をおいた観光客ならだれでも、肌の色合い、鼻の高低、瞳の大小、毛質の硬軟、身躯の巨細、手足の長短など、行き交う人々の容貌や体型が示す多様性に心を奪われるのではないか。観光客は、行き交う人々を一定の基準で特徴づけ、分類することの困難さを痛感するにちがいない。しかし人類という複雑な生命・文化現象を理解する際に、私たちが用いてきた分類はあまりにも単純である。
ここにおもしろい統計がある。「人類はいくつの人種に区分できるか」という問いに対して、アメリカの学生は「一つ」から「無数」までいろいろな返答をするのに比べ、日本の大学生の過半数は「三つ」と答えるのである。後者の回答は、「白人」、「黒人」、「黄色人種」からなる三つの「人種」区分を教義のように伝えてきたわたしたちの教育の現実を反映している。だがこの区分は、帝国主義の全盛期に、ヨハン・ブルーメンバッハからジョセフ・ゴビノーに至る理論家たちが西洋を中心とする世界観に基づいて発達させた、自分勝手で差別的な枠組なのである。
この分類を明に暗に補強してきたものが、人種と運動能力との関係性を論じる諸説である。これらの説は、五輪大会やW杯のような世界全国の注目が集まるアスリートの祭典があるたびに、競技結果に関する強引な一般化を試みてきた。曰く、「陸上に強い黒人」、「泳力に長ける白人」、そして「柔軟で小柄な身体と器用さを生かして体操や卓球で傑出するアジア人」を見よと。こうした主張は、一つの人種を特定の運動種目で優越させる先天的な要因を想定し、環境や文化による影響では超えられない生物学的な人種的境界の存在を示唆してきたのである。
では、人種的運動能力の先天説にはどれほど正当な根拠があるのか。本報告では、次の二つの角度から、この問いに対する答えを模索したい。まず、三人種区分と相補的な関係のなかで発達した人種的運動能力諸説を取り上げ、オリンピック競技への注目などに促されて積極的・消極的な支持を獲得し、あるいは批判されてきた様子を概観する。次にアメリカにおけるサッカーの歴史を振り返り、スポーツと愛好者集団との関係が文化的に構築され、変化してきたプロセスを検証する。これらの作業を通して本報告が、「スポーツと人種」という主題について注意を喚起し、さらなる考察を促すための機会となれば幸いである。